明日かもしれない
流石に人間ですもの、誰でもどうしても食べられないものが一つや二つはあるわけで。
食べられるけど、すすんで食べるものではないものもあるわけで。
家族として暮らしていると、誰かがそれを食べないということは大いにあります。
食卓に出さないというのも一つの手段ではありますが
食卓に出しても食べなくていいよ、というのもありだと思うんです。
もしかしたら、好きになるきっかけを出さないことで奪っているかもしれないので。
私の母は芋づるを食べる人で、とても美味しく煮物を作ってくれました。
父はそれを「牛のエサ」と食べませんでした。
父の実家は仔牛の出荷をしていたので、芋づるは本当に牛のエサだったからです。
それだけ父に色々言われても、母は芋づるの煮物を出し続けてくれました。
おかげさまで、私も芋づるは自分で調理するほど大好きになりました。
そして、私の家庭でも、「漬物」に関しては4者4様の好みがあって、同じものは食べません。
私は漬物全般たいてい好きなので、たまに食べたくなります。
この漬物はこの人が苦手だしなぁ
と思ったら、その人よりの味や調理にして食卓に出します。
今回のテーマは、たくあん。
ちょっと塩抜きをして刻んで、バターで炒めておかかしょうゆで味付け。
それにごまをたっぷり入れて、おにぎりにしてみました。
こうすると、たくあんが苦手な人も手が伸びました。
騙して混ぜたりするのではなく、知った上で、じゃぁ食べてみようかな、と思わせるのを大事にしています。
(たくあんは惣菜畑がんこさんのたくあん。お米は馬場ファームの脇山米)
無理に嫌いなものを食べなくてもいいけど、チャレンジはしようね。
いつも子ども向けの講座で私が言う言葉です。
「好き嫌いをなくそう」という一般的な食育とはかけ離れていますが、私は嫌いなものは
「今食べられないだけ」
で
「いつか食べられるようになるかもしれない」
と定義しています。
そしてそのいつかは、おじいさんおばあさんになってからかもしれないし
実は今日来るかもしれない。
だから、とりあえずひとくち食べてみよう。それでだめだったら
「あー、今日じゃなかったね。」
と思えたらいいと思うんです。
よく「騙されたと思って食べてみて」と言われて
「騙されたー!」ってなったことありませんか?
その食べ物の最後の記憶が「騙された」ではとても寂しい。
「食べられるのは明日かもしれない」
と思う方が、今日の食卓の思い出も明るいし、明日へ希望がある気がするのです。
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