右に倣えの恐怖
若者言葉でいうところの「心友」の弁護士さんが、
弁護士会の死刑廃止決議案について文章を書いていらっしゃったので、それを拝読して感じたことを書きたいと思います。
世の中、一つの意見にまとめ過ぎようとしてないかしら?
私は法律の専門家ではないので、死刑廃止についての賛否は判断できません。
専門家でない私が死刑反対の立場の人の意見としてよく耳にするものの中で気になるのが、
「OECD加盟国の中で、死刑があるのは、日・米・韓の3か国だけ」とか
「国連が死刑廃止を求めているから死刑は廃止すべき」というものです。
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/shikeiseido_yesno.pdf
(確かにえん罪もありますが、このサイトは最初から答えを「死刑反対」に誘導してないかな、思想統制じゃないかな、と思いますが…)
全く同じではないのですが、印象が被るのが
「EUで禁止されている農薬が日本では使用されているから反対」とか
「EUで認められていない食品添加物が日本では使用されているから反対」のような、意見。
国際的にそうしてるから、日本もそうしなくてはならないという、右に倣えな感じが、印象が似ていると感じる原因なのかな、と分析しています。
国際基準に合わせる、という短絡的な考えには賛成しかねますが、食に携わるものとして、農薬や食品添加物などに関しては、倫理的、科学的に考えて、現段階では賛否の判断できないと思ってます。
反対されている人たちは、違う意見の人たちに対して、議論という名の論破を挑むような感じで、少し怖い気がします。
右に倣えではなく、色々見聞した上で自分なりに考えて、違う意見を持つことは許されないのでしょうか。
また、私のように判断していない人には「この人は何も知らない哀れな人」というふうにカテゴライズされて、悲しい気持ちになります。
判断の保留は無知なのでしょうか。
違う意見を持つ人を無視したり傷つけてまで広める、「ただ一つの正義」はこの世に存在するのでしょうか。
写真は子ども達の幼稚園時代のキャラ弁 アンパンマンとメロンパンナちゃん
アンパンマンの作者のやなせたかしさんは、「正義は不安定なもので、ある日突然逆転する」のような事を、著書などいろんなところで述べています。(やなせたかし 明日をひらく言葉 など)
今それが正しいと思うことは、いつかひっくり返ることがある。間違える事だってある。
一つの集団の中でも、たくさんの意見や、保留という意見があってもいいんじゃないかな。
一つである必要はあるのかな。
余白というか、余裕とでもいうのか。今の世の中にはそれが必要なんじゃないかな。
そんな考えの私は甘いのかな。
で、死刑制度に賛成か反対か
えん罪ではない、という条件が前提ですが。
被害者の家族の心情と、刑を執行する公務員の心情を考えると、やっぱり賛否決められないのが素人の意見です。
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